復興と希望のシンボルとして「この町・花の街・作戦」実行委員会が呼びかけ、それにこたえ全国から寄せられた資金で1997年に苗木が植えられました。99年から収穫できるようになり、今年も可愛いりんごを実らせています。(→註)
弘前のお盆のお墓参りには、こんな早生りんごが入ったお供え物を祖母も母も用意してたっけ...
今朝の駅での宣伝は、日差しが暑かった!
今日はネクタイ姿のさわやかな青年Uさんの参加もあり、元気な後援会でチラシを配ることができました。
夕方は芦屋原水協の会議へ。
- オバマ米大統領の「核のない世界」をめざすという4月の演説について、意見交換。
- 9日平和大行進が無事芦屋を通過。市長と市議会議長のメッセージも。芦屋九条の会も初参加で、210人のつどいと160人が東灘に向けて行進。西宮からの行進者は、市民参画課のお茶接待でお世話になりました。
- 原爆症裁判と被害者の会の近況報告に胸が詰まりました。
今年3月19日に亡くなった女性(夫さんからの聞き取りから)。
4歳の時に2.5キロあたりで被爆。お母さんはガラス破片が体内に残ったままだったと。
申請したら認定される条件が充分あったが、ずっと申請せずにいた。
「お金が欲しいのではない、認定してほしいだけ」とがん闘病の末、去年7月申請。
今年2月から1ヶ月ほど自宅療養。3月20日会の総会案内を郵送したが、23日に夫さんから連絡が入る。3月19日息を引き取ったと。
女性は「お父さんありがとう」と毎晩夫に言うようになり、「なんで?」って聞くと、「明日の朝は、目が覚めないかもしれないから...」。
そんなことが三晩続いて、四日目の朝に口の端に血が付いていて亡くなっていたと。胸を抑えたら、口から血が噴き出した...
被爆者の会は昨年、芦屋の被爆者の会員72人にアンケートをとる。その中で原爆症申請できると思われる人8人に被爆手帳取得のお知らせを送る。うち、6人が申請し、今年認定された人は3人。その3人のうちのひとりが前述の女性。
報告してくださった被爆者の会会長の千葉さんも、爆心地から2.5キロ地点で被爆。縁側の下から爆風が吹き上げ、畳がにょきにょき立っていて、タンスの引き出しが飛び出していた...被爆64年経った今も、千葉さんのお話から悲惨な状況が想像できます。
千葉さんはひろしま被爆の語り部として、現在さまざまな場で活動中。今年の夏は、芦屋原水協で「被爆体験と芦屋での平和運動の歴史をきく会」をひらきましょう!ということになりました。
それにしても、東京都議会選挙の結果から思うのは、平和憲法を改正するという民主党が大きくなるなかで、なんとしても憲法9条は守り、改正させてはならないということ。
核兵器廃絶の署名活動を日本でもいち早く立ち上げた芦屋の平和の思いを守り続ける責任が今生きてる私たちにあるんだよね!
註:「希望リンゴ」が植えられた経緯などについては、この運動をすすめている「夢遊人の広場」をご覧ください。http://www1.ocn.ne.jp/~yume123/yumeyuujinn.htm
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